2013/6/25  21:30

人間の差別意識と発達障害者認識  独り言

こんばんは。昨日この記事かきたしていて、ブルスクをはきまして、データが一気に全部吹っ飛ぶという事象が発生しました。ってことで、今日のブログお休みにしようと思っていたのですが、何とかかけたので予定通り更新したいと思います。

先日障害者について話しましたが、それについての補足というか、差別認識ってところにちょっとスポットを当ててみてみたいと思います。ってことで今回の記事を書いたわけです。

ちょっと急ぎ気味で書いたので文章の組み立てがおかしいところがあるかもしれません。ただ、伝えたいことはしっかり伝えられるように書いたつもりです。

一障害者の家族として、街中で障害者を眺める一健常者として、今思っていることを書きたいと思います。こんな認識を持っている人もいるんだ・・・ってスタンスで読んでいただければ。そして、発達障害者について少しでも理解できたのであれば幸いです。

では、読むって方はお入りくださいませ。

―――

先日、教育心理学の授業で、人間の差別意識について非常に興味深い実験が行われたということ絵を学びました。この実験は、教育の世界では結構有名なものになっているので知っている人もいるかと思いますが、ちょっと書きたいと思います。

それを踏まえて、今の発達障害者(場合によっては身体障害者も)に関しての社会認識を考えていければ、と思います。

さて、いきなり本題に入りますが、行われた実験、それは「差別を人工的に作り出す」という実験でした。

あらすじに関しては、NHKの「日本賞」のホームページから引用します。
URL→ http://www.nhk.or.jp/jp-prize/2007/prize_gp.html


以下引用
ある日、教師は生徒たちに、「背が低い人は、背の高い人よりも優秀で、創造的で、何でも丁寧にできると科学の本に書いてありました」と話し、「身長 1m34cm を境にクラスを2つに分けましょう」と背の高い生徒に赤いベストを着せる。それを前提に授業が行われ、背の高い子が黒板で問題を解くと、「ほらね、字がきたないでしょう?やっぱり、背が高い子だからね」などと話す。背の低い子どもは「休み時間の5分前に教室を出てよい」「雪遊びをしてよい」といった特権を与えられ、目を輝かせる。実際に自分が「差別」を受けたらどう感じるかを体験させる授業なのである。
2日目に立場を交代させた時、予想した効果が出ないと教師が嘆く場面もある。
 この授業は、1970年に放送された番組が元になっている。アメリカ人の女性教師が、青い目の子は優秀で、茶色の目の子は劣る、と教えて人種差別を経験させ、その実験授業が放送されて話題になった。それを見た小学校の教師が、生徒の親、委員会、校長の了解をとって実施した、と番組中に説明がある。
 2日間の実験授業から3週間後。こういう経験は子どもたちの“心に刻まれる”ので、差別や侮辱の軽減に繋がるでしょう、と教師は語る。

引用終わり

さて、この実験授業、本当に差別がなくなるという効果が得られると思いますでしょうか?



私は、「表面上」差別をなくすことはできるかとは思います。

というのは、この前も言ったかと思うのですが、「差別は人間の習性として身についてしまっているもの」であるということに起因します。

もともと、動物は、生きていくために自分の集団が有利になるように物事を進めようとします。つまり、自分の集団をよく思わせ、他の集団を悪く思わせる、という行動をとるということです。確かに、動物が生きていくうえでこれは必要不可欠なことですよね。

さて、それを人間に置き換えて考えてみましょう。その場合、人間は「自分と違う、自分と相容れない特徴をもつ人間を排除する」という傾向があるように思われます。これが人間の習性と言ってもいいかもしれません。
ですから表面上は仲良くしていても、心の中ではよく思っていない、なんて言うこともしばしば起こっているのですよね。

だから、この前の文章にも書きましたけど・・・
「障害者を見るときに大多数の人の頭の根底にあるのは「差別感情」だったり「憐み」だったり「危機意識」だったり。だから一般の人って、倫理的な観点から「差別がダメ」って思っているんでしょうけど、本能的なところを見てみるとどこかに、「私とは違う変な人」って認識を持っているのではないかな、と・・・。」
こういうことが言えてきちゃうんですよね。残念ですけど、私は仕方ないことなのかな、って思ってます。

人間は差別をしなきゃ生きていけないんですよ。


だから、さっき例として出した授業について。AグループがBグループをバカにするようになる。そして翌日はその逆がおこる。要するに生徒自らが差別をするということが起きています。これは、自分が弱者になりたくない、というある種の恐怖感から、弱い立場の人をいじめている、ということも言えるかもしれません。
いずれにせよ、環境が差別を作り出すこともあるんだということですね。人間、自分がちょっと強い立場にいるということが分かるとその立場から落ちたくないんですよね。ホント、醜い動物ですよ。

でも、私が言いたいのはここではありません。(まぁ、この場面にも言いたいことは普通にあるのですが。) 本題は次ですね。

そして、全てが終わって、生徒に先生がこの実験授業のことを打ち明けたとき、生徒から発せられた言葉。「次は先生の番だ!」・・・これ。
やっぱり誰か差別していないと人間は生きていけないのかもしれませんね・・・。
このシチュエーションじゃ単なる報復のように感じるかと思います。しかし、この時すでに子供たちは「差別されること」の辛さを理解しているのです

それでも、差別を行おうとする・・・。やっぱりそれはどうしようもない本能的なものなのじゃないか、そう考えてます。

でも、この授業の「経験」っていうもの、それがある種の抑止剤にはなりうると思います。実際に効果は出ているわけですから。よって、この授業は私は生徒たちが「大人になる」授業だと捉えています。
だから「表面的には」差別をなくせるって考えるわけです。心の中でどう思ってるかは人それぞれですが。だから、極端なこと言っちゃうと、「心の中で人を差別しているがそれを行動に出さない」ってことがこの差別理論のちょっとしたゴール地点になると思っています。
教育現場でいじめ問題が多くおきているのも、「子供が大人になりきれていないから」という理由で説明できるのかもしれませんね。(でも大人でも差別する人はいますが。学校のいじめよりはあまり取り上げられませんよね。)

ですから、教育現場においては「差別はダメ!」「みんな仲良くしろ!」ってことを声高に言うのではなく、子供に対して「大人になれないか」「我慢できないのか」という方向でアプローチを進めていくほうがいいんじゃないかって思います。それも、消極的ではありますがひとつの人間関係ですから。だから、教育現場に「大人になる」「自分と相容れないものを我慢する」って趣旨の活動を取り上げてみてもいいんじゃないかな?って思います。

そういう人間の本能的認識から、障害者のことを考えてみましょうか。特に発達障害者、自閉症、アスペルガーといったものを。

とあるテレビ番組で、アスペルガー症候群の人が取り上げられていました。そこで共通してアスペルガー症候群の人が持っている認識、それは「自分のことを理解してくれない」ということ。アスペルガー症候群の人の場合、その人が障害を持っているということが、傍から見ると分からないんですよね。
それはそれで健常者と区別がつかないレベルで生活できているということ。その観点から見ると理想的なものかと思います。しかし、言葉の使い方が独特だったり、どうでもいいこと(というと語弊があるが)をやたら覚えていたり、意思疎通が不十分だったり、そういうところから健常者は「障害者」ではなく、「ちょっと変わった人」という認識を持ちやすいんですよね。アスペルガーの場合はどこまでが「個性」でどこからが「障害」なのかがわかりにくいって言うのもマイナスに作用しているんじゃないかな。と。
自閉症に関してはもっと意思疎通に問題があったり、言葉に抑揚がなかったり、言葉を字面どおりに解釈してしまったり・・・ってことでやっぱり健常者から見ると「自分とは違う人」って思ってしまいがちです。こっちはより健常者からすると「障害」って認識を持ちやすいんじゃないかな?と思います。

でも、それはそれでいいと思います。実際に「違う」んですから。

ただ、そこで健常者がどのような行動をとるのか。ということが問題になってきます。

ここでさっきの実験授業の話が出てくるのですが・・・。

「「障害者を見るときに大多数の人の頭の根底にあるのは「差別感情」だったり「憐み」だったり「危機意識」だったり。だから一般の人って、倫理的な観点から「差別がダメ」って思っているんでしょうけど、本能的なところを見てみるとどこかに、「私とは違う変な人」って認識を持っているのではないかな、と・・・。」」

こういうことなんですよ。この場合は「私とは違う変な人」という認識を持っていることが多いんじゃないかな?と。こういう認識下で「なんか変な人がいる」っていう判断から遠巻きに眺める。かかわらない。って思考に行くのはごく自然のことだと私は思います。
しかしその逆もあるんですよね。「かわいそうな人」認識する人。かわいそうな人だから手伝ってあげないといけない。っていってやたら干渉してくる人。まぁ、発達障害者とかに関してはこの事例は少ないんですけどね。身体障害者には多いんだなこれが。別にそれに関しては否定しませんよ。「障害者が本当に望んでいる介助」ならば。でも、障害者ができること、障害者がやりたいと思ってないことに対していちいち手を出すのは違いますよね。

さて、ちょっと脱線しましたが戻します。

今言及するのは前者の「遠巻きに眺めてかかわろうとしない人」いうなれば「変な人がいる、と白い目で見てくる人」のことです。発達障害者に関してこういう人非常に多いんですよ。

そこでひとつ言っておきます。

それは「差別」ですよ。って。

変な固定観念持っている人が多いんですよ。たとえば、この例はよく出てきますが「統合失調症患者だから犯罪を起こした」っていう例。統合失調症患者の犯罪発生率は健常者の半分以下です。それと同じで「発達障害者だから自分に危害を加えるのではないか」っていう誤った認識。人に危害を加える発達障害者ってそうそういませんよ?しかも、意図的に危害を加えることはまずありえません。
だというのに、自分とは違うって、それだけで差別する人。ちょっと認識改めたほうがいいんじゃないでしょうか?

確かに発達障害者や知的障害者に関しての理解が進んでいないという残念な事実はあります。だからこそそういう障害についてちょっと調べてみるべきだと思います。きっと新しい発見があるでしょうから。

確かに横に知的障害者がいたら不快に感じるかも知れません。でも、「大人になれない?」「我慢できない?」って思います。自分が受け入れられない人に対して逃げたり、白い目で見たり・・・それは学校でよくいわれている「いじめ」と一緒ですよ。もう少し大人な対応ってできないんでしょうか?

過度な干渉は必要ありませんし、そこまで要求する気もありません。しかし、普通の人間と同等のレベルで同等の接し方で・・・って社会になっていかないんでしょうかね?
そのためには障害者に対しての理解を深めるって言うことが必要不可欠なのですが・・・。
そもそも90年代の教育現場が障害者を隔離しがちだったっていうところから・・・ねぇ?
障害者に対しての差別はダメ!とか言っておきながら障害者に接せさせないんだから。障害者理解も何もあったもんじゃありませんよ。だから、こういう社会の風潮っていうのもひとつ問題になっているんじゃないかな? 

最近はそう思っています。


長くなりましたが、とりあえずは以上にしておきます。この文章で障害者に関しての認識が少しでも変わっていくのであれば幸いです。また、何かあったらいろいろと書きたいと思いますので。。

長文にお付き合いくださりありがとうございました。

では。
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